Friedrich Maximilian Klinger - 作者紹介
目次
概要

ドメニコ・ボッシによる肖像画(1806)
CC BY-NC-SA / Freies Deutsches Hochstift
フリードリヒ・マクシミリアン・クリンガー(Friedrich Maximilian Klinger, 1752年2月17日-1831年2月25日)はドイツの劇作家・小説家で、時代としてはゲーテと同郷かつ同世代にあたります(ゲーテは1749年生まれ)。当時の文学運動「疾風怒濤」(Sturm und Drang)の代表的な劇作家として知られ、運動自体の名前もクリンガーの同名の戯曲(1777年刊行)からきていますが、その後もロシアに渡って軍人・役人として活躍しつつ、多数の長篇小説を執筆するなど、息の長い活動を続けました。
後半生をドイツ文学界の本流から離れたロシアで過ごしたこともあり、長らくドイツ期(=疾風怒濤期)の作品ばかり取り上げられる傾向にありましたが、近年ではロシア移住以降の作品や活動も徐々に注目されつつあります。
生涯
以下の記述は、特記がない限りADB、NDB、Smoljanにもとづいています(略記号に関しては参考文献参照)。
また、作品はいずれも邦訳がないため、日本語題は仮題です。
誕生、フランクフルト時代(1752-1774)
1752年2月17日、クリンガーはフランクフルト・アム・マインで、砲術下士官ヨハンネス(1723-1760)と妻コルネーリア(1727-1800)の長男として生まれました。きょうだいとしては、姉アンナ・カタリーナ(1751年生まれ)、妹アグネス(1757年生まれ)がおり、弟も生まれましたが、早くに命を落としました。
クリンガーが8歳のとき(1760年)に父が亡くなり、もともと裕福ではなかったクリンガー家は経済的苦境に陥ります。洗濯や給仕の仕事で生活費を稼ぐ母親を支えるため、クリンガー自身も、ギムナジウムに通いながら色々な手伝いでお金を稼ぐ日々を送りました。当然、大学の費用を出してもらうのも難しく、1772年秋にギムナジウムを卒業した後は、学費を貯めるために一度学業を中断します。
そんな中で親しくなったのが、同郷の裕福な家の出身だったゲーテでした。そのつながりで他の若い作家や芸術家とも知り合い、クリンガーの小さな家では、土曜の晩になるたびに同好の士が集うようになりました。その中にはゲーテのほか、作家J・M・R・レンツ、作曲家クリストフ・フィリップ・カイザー、劇作家ハインリヒ・レオポルト・ヴァーグナーなどがおり、時にはゲーテを訪ねてフランクフルト外から作家が訪れることもありました。当時の様子については、後年にゲーテが自伝的作品『詩と真実』(Aus meinem Leben. Dichtung und Wahrheit, 1811-1814)で活き活きと描いています。 ゲーテによる肖像画(1775)
CC BY-NC-SA / Freies Deutsches Hochstift
生涯にわたり影響を受けた思想家ジャン=ジャック・ルソーの作品にふれたのもこの頃で、独学のフランス語で原書を読破するほどでした。ちなみにクリンガーは語学の面でも多才で、フランス語のほか、英語、ロシア語、ギリシア語、ラテン語にも通じていたとされています。
ギーセン大学時代(1774-1776)
1774年、クリンガーはギーセン大学に入学し、ゲーテの紹介で法学者ヘプフナー(Höpfner)教授のもとに下宿します。ただ、経済的に苦しい状況は変わっておらず、やはりゲーテの援助を受けながらの学生生活でした。クリンガーはこうした援助をありがたいと同時に心苦しくも思っていたようで、友人への手紙では、そうした心情が吐露されています。
大学では法学を専攻しましたが、形式的・抽象的な学問に興味が持てず、むしろ文学の方面に打ち込むようになります。そうした中で自分でも創作をはじめ、1774年に処女作の騎士劇『オットー』(Otto)を発表、その後『双子』(Die Zwillinge, 1775, 1776刊)などの戯曲を在学中に矢継ぎ早に執筆し、激烈な内容で賛否両論を巻き起こしました。 『双子』初版の扉絵
また、終生の友人エルンスト・シュライアーマッハーと出会ったのもギーセン大学でのことで、ふたりはクリンガーのロシア移住後も手紙でやり取りを続けました。
1775年春には休暇で一度フランクフルトに戻り、同地を偶然訪れていた詩人シュトルベルク兄弟(フリードリヒ・レオポルトとクリスティアン)と知り合います。クリンガーは彼らの影響で古典古代への関心を深め、その傾向は後年まで続きました。他に、詩作にも挑戦していますが、こちらは長続きしませんでした(少なくとも、これより後の時期には、クリンガーによる韻文作品は現存していません)。
ヴァイマルへ(1776)
1776年5月、クリンガーはギーセン大学を中退します。背景には、以前として苦しい経済状況や、法学に関心が持てないことによる精神的な鬱屈がありました。関心はとうの昔に文学のほうに向いていましたが、当時のドイツでは、文学作品の売上だけで食べていくのはほとんど不可能でした。生活のためには、執筆とは別の本業を持つか、貴族などの裕福なパトロンを得るしかなかったのです。既に『双子』などの劇で好評を得ていたクリンガーであっても、例外ではありませんでした。
そこでクリンガーが引きつけられたのが、友人ゲーテのいるヴァイマルでした。ゲーテは1775年末、カール・アウグスト公の招きで小国ヴァイマル公国に移住し、宮廷で重要な地位を占めていたのです。旧友に会いたい懐かしさと、ヴァイマルでなら文学で身を立てられるかもしれないという希望を胸に、クリンガーはギーセンから一路ヴァイマルへと向かいます。
その期待は、初めのうちは裏切られませんでした。クリンガーはゲーテと再会して熱い抱擁を交わし、宮廷の華やかさとゲーテの影響力に驚嘆して、ギーセンでの憂鬱を吹き飛ばすことができました。
しかし、じきに熱は冷めはじめます。宮廷作法になじめず、客として歓待はされるものの登用の話はいっこうに出ない。頼みの綱だったゲーテとも、文学性の違いなどからだんだんと疎遠になっていきました。クリンガーが当時もなお「疾風怒濤」的な激しい性格だったのに対し、ゲーテはその時期を過ぎ、無闇な激しさを嫌うようになっていたのです。

1779年のゲーテ
経済的にも社会的にも好転しないまま、クリンガーは1776年9月にヴァイマルをあとにします。ゲーテとの決裂が発端となった、行くあてもないままの出発でした。「かくして私は旅立ち、怒りに燃え、心の奥深くまで傷ついて、偶然の腕のなかに身を投げたのです」1と、後年の彼は手紙で綴っています。
劇団付き詩人として(1776-1778)
少しのあいだ各地を転々とした後、クリンガーはアーベル・ザイラー(1730-1800)の移動劇団に誘われ、1776年10月からドラマトゥルクおよび劇作家として加わることになります。待遇は食事と宿付きで年500ターラーという、母と姉妹を養わねばならない立場では乏しいものでしたが、あわや所持品を売ることも検討していたクリンガーにとっては大きな吉報でした。
ザイラーはレッシングと共にハンブルク劇場に関わった人物で、シェイクスピア、レッシング、疾風怒濤期の戯曲を上演するなど、当時の一流の劇団のひとつでした。クリンガーはこの劇団と共にライプツィヒ、ドレスデン、マンハイム、ケルン、フランクフルト、マインツなどを巡り、戯曲『スティルポと子供たち』(Stilpo und seine Kinder, 1780刊行)を書いています。
加入から約2年が過ぎた1778年2月、作家として生きることへの鬱屈と疑念から、クリンガーはザイラーの劇団をあとにします。行き場のない意欲を抱えたクリンガーが次に目を向けたのは、兵士としてのキャリアでした。
ロシア移住まで(1778-1780)
1775年に始まったアメリカ独立戦争は、ヨーロッパでも多くの進歩的知識人の注目を集めていました。クリンガーもその一人で、すでにヴァイマル滞在中にも加勢を試みていましたが、実現はしませんでした。
劇団を去ったクリンガーは、ゲーテの義兄弟ヨーハン・ゲオルク・シュロッサーを頼って再び独立戦争への参加を探ります。シュロッサーは知人のゴットリープ・コンラート・プフェッフェルを介してベンジャミン・フランクリンに紹介してもらおうと尽力してくれましたが、結局、クリンガーの参加は今回も叶いませんでした。代わりに1778年、オーストリア義勇軍の士官としてバイエルン継承戦争に参加していますが、こちらも1779年には部隊が解散し、ふたたび拠り所のない立場となります。
苦しい中でも執筆は続けており、喜劇や長篇小説、ラーヴァーター(1741-1801)およびサラジーン(1742-1802)との共作の長篇小説『プリムプラムプラスコ』(Plimplamplasko, 1780)などを執筆しています。
そして1780年の秋、シュロッサーの努力が実を結びます。ロシア大公妃の父親だったヴュルテンベルク公に働きかけた結果、大公妃への推薦状と、ロシアへの旅費100ドゥカーテンを工面してもらえることになったのです。ドイツでの生活に未来を見出せないでいたクリンガーは、この機会をつかみ、ドイツを永久に去って、一路ペテルブルクへと向かうことになります。クリンガー28歳のことでした。
ロシアでの最初の日々(1780-1801)
キャリア
1780年9月、クリンガーはロシア帝国へ渡り、海軍大隊の少尉および大公パーヴェル(のちのパーヴェル1世)の補佐官に任命されます。同年には勤務貴族となり、「フォン・クリンガー」(von Klinger)を名乗れるようになりますが、クリンガー自身は終生、私信でも公文書でもその称号は用いませんでした。

パーヴェル大公
1781年~1782年には大公夫妻のヨーロッパ旅行に随行し、ロシア各地のほか、ポーランド、オーストリア、フランス、ベルギーなどを巡る機会を得ました。1782年9月22日にはヴュルテンベルク公国のソリチュード宮殿での歓迎の宴に参加し、祝宴にまぎれて公国から脱出を果たした作家フリードリヒ・シラー(1759-1805)とニアミスを果たしています2。
ヨーロッパ旅行から戻ったクリンガーはペテルブルクの歩兵連隊中尉となり、1783年~1785年にはアレクサンドル・スヴォーロフ(1729-1830)の指揮下で、モルダウ地域のトルコ軍との戦闘に参加します。名将として知られたスヴォーロフによる指導を見たことは、のちにクリンガーが行った軍人教育改革にも影響を及ぼしたとされています。
1785年、戦役から戻ったクリンガーは後の「第一士官学校」(Кадетский корпус)となる機関に将校として派遣されます。当初は複数いる将校のひとりとして、後には校長として、30年以上にわたる士官学校との関わりの幕開けでした。当時は暴君として知られたパーヴェル1世の治世であり、将校たちの間には重苦しい空気が漂っていましたが、そんな中でもクリンガーは士官学校の事実上の指導者となるなど地道に活躍していきます。
また、1788年にはエリザヴェータ・アレクサンドロヴナ・アレクセーエワ(1761-1844)3という女性と結婚し、1791年には息子アレクサンドルが誕生します(子供は他にもいましたが、早世しました)。
創作
この時期(1780-1790)には公務のかたわらで創作活動も盛んに行っており、古代ギリシアに題材を求めた『コリントのメデイア』(Medea in Korinth, 1781)、『コーカサスのメデイア』(Medea auf dem Kaukasus, 1789)などの多くの戯曲や、『黄金の雄鶏の物語』(Die Geschichte vom goldnen Hahn, 1785)などの長篇小説を執筆しました。
続く1791年から1798年にかけては、10部作の構想で一連の長篇小説を執筆し、最終的に8作品が完成しました。8作目までがほぼ完成していた1798年には、『一般ドイツ新聞』第89号に広告を出し、次のように目論見を語っています。(長いので冒頭のみ抜粋)
著者はここで、著者の知る限り、これまでいかなる作家も試みてこなかったことに挑戦している――この果敢な試みの完遂については、知識人諸氏と時代が断を下すはずである。
少なくとも著者は、一度に十作の実にさまざまな作品の計画を描き、しかも各作品がそれ自体で自立したひとつの全体をなしており、一方で最後にはすべてがひとつの主要な目標に向けてひとつになるようにしよう、という、大胆な決心をした。4
その後は自伝の計画もありましたが実現せず、代わりに1798年から1804年にかけて箴言集『世界および文学の様々な対象に関する考察と思考』(Betrachtungen und Gedanken über verschiedene Gegenstände der Welt und Literatur, 1803-1805刊行)を執筆し、これが発表された最後の完成作となります。9作目の長篇小説『人類の守護霊の早すぎた目覚め』(Das zu frühe Erwachen des Genius der Menschheit, 1798, 1803刊)は断片のみが発表されました。クリンガー自身はその後も1831年まで四半世紀近く生き続けていますが、手紙など除いて、執筆された作品は現存していません。遺稿は本人の遺志で焼却されてしまったため、本当に何も書いていなかったのか、公表していなかっただけなのかは不明のままです。
執筆が途絶えた理由には、公務による多忙などの他に、ドイツから離れていることによる手ごたえのなさがあると考えられています。ロシアに移ってから、ドイツとの繋がりはしだいに細っていき、最終的にはシュライアーマッハー、カイザー、母と姉妹、版元であるハルトクノッホおよびニコロヴィウスとの文通だけになっていました。その文通も届くまでに数ヶ月かかったり、途中で紛失されたりと不便の多いもので、ロシア帝国の厳しい検閲や、作品が匿名出版であるという事情もあり、作品や近況について自由に語るのは難しい状況でした。クリンガー自身、1803年の手紙で「私にとっては、どの本を送っても、大洋に投げ込むのと同じです。何も聞こえないのです」5と、反響のなさへの不満を漏らしています。
官吏としての活躍(1801-1812)
1801年3月11日、クーデターによってパーヴェル1世が暗殺され、アレクサンドル1世が即位します。アレクサンドル1世は当初は開明的な政策をかかげ、自由主義的な知識人を数多く登用しました。青年期から進歩的な著作で知られていたクリンガーもその一人として取り立てられ、同年には第一士官学校の校長に任命、1802年には貴族幼年学校(Пажеский корпус)の校長に就任、同年には国民教育省や女性士官候補生の教育に関する委員会の一員となり、さらに1803年にはデルプト大学(現タルトゥ大学)を含むデルプト地域の教育の指導者となるなど、主に士官教育の改革において一躍昇進を果たします。

皇帝アレクサンドル1世
一時は8つの役職を兼ねるほどの多忙な日々でしたが、いずれの仕事にも精力的に取り組み、敬愛するルソーの教育論や、上官だったズヴォーロフの指導法をもとにした教育改革を進めました。士官学校長としては、一見冷たいながらも学生想いの校長だったと、後年に学生の一人が回想しています。その一方でロシアの知識人や、尋ねてきたドイツの作家らとも交流し、少ないながら親密な友人関係を築きました。さらに、ヴァイマルを去って以来疎遠なままとなっていたゲーテとも、1801年4月23日のゲーテからの手紙をきっかけに関係が回復し、クリンガーの死まで温かい文通が続きました。
引退と晩年(1812-1831)
1812年、クリンガーに大きな衝撃を与える出来事が起こります。祖国戦争6において、二等大尉だった一人息子アレクサンドルが、ボロジノの戦いで負傷し、そのまま死亡したのです。享年20歳でした。クリンガーの悲しみはあまりに大きいものでしたが、悲しみのあまり病に臥せってしまった妻エリザヴェータを支えねばならないこともあり、表向きは気丈にふるまいました。当時の手紙には、クリンガーの絶望がつづられています。
不幸な妻はもう4ヶ月寝込んでいて、まだ神経がきわめて衰弱しています。生き延びる望みはありますが、妻を待ち受けているのはどんな人生でしょう? 私たちにとっては全てが終わってしまったのです――私はもう二度と生を見出せず、ひとつの思い、ひとつの感情の中だけで生きています――つまり、果てしない喪失の思いと感情です。私にはもう生きる目的がありません。7
追い打ちをかけるように、政府内ではクリンガーらリベラル派の失脚を狙う保守派の動きが勢いづいていました。当初リベラル派を庇護していたアレクサンドル1世も、このころには次第に保守的な方向に傾いてきており、もはや頼りにはなりませんでした。反封建主義・反教会を貫いていたクリンガーは保守派による攻撃の格好の的となり、いっそう孤独で苦しい戦いを強いられていきます。既に1800年代に『世界および文学の様々な対象に関する考察と思考』で自ら述べていた通りの状況に、クリンガーは追い込まれていました。
要職にあってどこでも完全かつ厳格に義務を果たそうとする官吏は、古代と現代のどんな偉大な英雄にもまさる勇気を発揮するものだ。英雄は軍勢の戦闘に立って目に見える敵と戦うが、官吏はただひとりで、暗闇から権謀術数で襲ってくる軍団と戦うことになる。英雄のほうは勝つたびに敵が減るが、官吏は勝つたびに敵が増えてゆく。8
奮闘もむなしく、1816年には国民教育省と宗務省(宗教関連の省)が統合され、国民教育省が事実上、宗務省の配下に置かれることになります。聖書協会会長でもあったA・N・ゴリツィン大臣による教育のキリスト教化が進められ、反教会の立場だったクリンガーは決定的な苦境に立たされます。結局、1816年12月26日、クリンガーはデルプト地域の教育長の職を辞し、貴族幼年学校、第一士官学校の校長からも1820年までに退任を余儀なくされました。
退任後のクリンガーは、デルプト(タルトゥ)に家を構え、余生を同地で隠居して過ごしました。息子の死、意志に反した失職などが重なったことで深い絶望と憂鬱に包まれていた彼は、その後、公務にも創作にも表立って取り組むことはなく、書斎にこもってわずかな友人としか会わない生活を送りました。作家としては、1816年に刊行された選集が、生前最後の発表作となりました。
1831年2月13日、79歳の誕生日から8日後に、クリンガーはデルプトで生涯を閉じました。
訃報を聞いたゲーテは、「あいつは他に例を見ない、誠実で、確固たる、しっかりしたやつだった」9と語り、大いに悲しんだと伝えられています。
死後
クリンガーの遺体はスモレンスク墓地に埋葬され、現在も同地に墓標があります。

クリンガーの墓標
CC BY-NC-SA / Blindpew100
蔵書家だったクリンガーは約6000冊の書籍を遺しており、妻エリザヴェータの意志により、彼女の死後にデルプト大学(現タルトゥ大学)の図書館に寄贈されました。現在でも、「クリンガー文庫」として残っており、クリンガーの思想を知る上で重要な手がかりとなっています。
一人息子が戦死したため、クリンガー自身の子孫は残っていませんが、姪の息子としてドイツ文学者マクシミリアン・リーガー(マックス・リーガー、1828-1909)がおり、多数の書簡を収録したクリンガー伝を著して、クリンガーの記憶と伝承に重要な役割を果たしています。
作品
23の戯曲と、14の長篇小説を残しています。
2024年1月5日現在、いずれも邦訳は刊行されていません。
戯曲
- Otto (1775)
- Das leidende Weib (1775)
- Die Zwilinge (1776)
- Scenen aus Pyrrhus Leben und Tod (1776)
- Die neue Arria (1776)
- Simsone Grisaldo (1776)
- Sturm und Drang (1776)
- Der verbannte Göttersohn (1777)
- Stilpo und seine Kinder (1780)
- Prinz Seidenwurm (1780)
- Der Derwisch (1780)
- Die falschen Spieler (1782)
- Elfride (1783)
- Der Schwur gegen die Ehe (1783)
- Konradin (1786)
- Der Günstling (1787)
- Medea in Korinth (1787)
- Roderico (1790)
- Damokles (1790)
- Aristodemos (1790)
- Oriantes (1790)
- Die zwo Freundinnen (1790)
- Medea auf dem Kaukasus (1791)
小説
- Orpheus (1778)
- Die Geschichte vom Goldnen Hahn (1785)
- Plimplamplasko, der hohe Geist. (heut Genie) (1780)
- Prinz Formosos Fiedelbogen und der Prinzeßin Sanaclara Geige. Genf (J. H. Legrand) 1780.
- Bambino’s sentimentalisch-politische, comisch-tragische Geschichte (1791)
- Faust’s Leben, Thaten und Höllenfahrt (1791)
- Geschichte Giafars des Barmeciden (1792-1794)
- Geschichte Raphaels de Aquillas (1793)
- Reisen vor der Sündfluth (1795)
- Der Faust der Morgenländer, oder Wanderungen Ben Hafis (1797)
- Sahir, Eva’s Erstgeborener im Paradiese (1797)
- Geschichte eines Teutschen der neuesten Zeit (1798)
- Der Weltmann und der Dichter (1798)
- Das zu frühe Erwachen des Genius der Menschheit (1803)
箴言集
- Betrachtungen und Gedanken über verschiedene Gegenstände der Welt und der Litteratur, 1803–1805
書簡
大半の書簡はRieger IおよびBriefbuchに収められています。
参考文献
- Adalbert Elschenbroich: Klinger, Friedrich Maximilian. In: Neue Deutsche Biographie. 12. Band. Berlin (Duncker & Humblot) 1980, S.83-89. [本文中、NDBと略記]
- Max Rieger: Klinger in der Sturm- und Drangperiode. Mit vielen Briefen. Darmstadt (Arnold Bergsträsser) 1880. [本文中、Rieger Iと略記]
- Max Rieger: Briefbuch zu Friedrich Maximilian Klinger. Sein Leben und Werke. II. Darmstadt (Arnold Bergsträsser) 1896. [本文中、Briefbuchと略記]
- Erich Schmidt: Klinger, Friedrich Maximilian. In Allgemeine Deutsche Biographie. 16. Band. Leipzig (Duncker & Humblot) 1882, S.190-192. [本文中、ADBと略記]
- Olga Smoljan: Friedrich Maximilian Klinger. Leben und Werk. Aus dem russischen übersetzt von Ernst Moritz Arndt. Weimar (Arion) 1962. [本文中、Smoljanと略記]
- [Friedrich Maximilian Klinger]: Betrachtungen und Gedanken über verschiedene Gegenstände der Welt und der Litteratur. Dritter Theil. St. Petersburg (Peter Hammer der Älter) 1805. [本文中、Betrachtungen und Gedanken IIIと略記]
- Karl Goedeke: Grundriss zur Geschichte der deutschen Dichtung aus den Quellen. Band 4,1. 3. Auflage, Dresden 1916, S. 800–811.
シュライアーマッハー宛、1789年8月29日。Briefbuch, S.9. ↩︎
シラーは当時、反体制的な作品などが原因でヴュルテンベルク公から禁固や執筆禁止命令を受けており、それを苦にしての逃走でした。 ↩︎
エカチェリーナ2世の寵臣グリゴリー・オルノフと愛人ヘレナ・ステファノーヴァのあいだの庶子。 ↩︎
[Friedrich Maximilian Klinger]: Nachricht an das Publicum über die philosophischen Romane von Fausts Leben, Thaten und Höllenfahrt, bis zum ***. In: Intelligenzblatt der Allgemeinen Literatur-Zeitung. Numero 89. 1798.6.20. ↩︎
ニコロヴィウス宛、1803年3月4日。Briefbuch, S.63. ↩︎
ナポレオン1世の侵攻に対する防衛戦争。 ↩︎
モルゲンシュテルン宛、1812年12月31日。Briefbuch, S.153. ↩︎
Betrachtungen und Gedanken III, S. 237-238, §874. ↩︎
1831年3月31日、フリードリヒ・フォン・ミュラーの記録。Goethes Gespräch. Gesamtausgabe. Neu hrsg. von Flodoard von Biedermann. 4. Band. Leipzig (F. W. v. Biedermann) 1910, S. 359. ↩︎